これは思考の整理だ。自分のぼんやりとした考えに形を与え、一里塚的に纏めている。誰かの参考になるかもしれないし、ならないかもしれない。正直Twitter復活して一本目にこの話題か?とも思ったが、書きあがってしまったのでしょうがない。
表題のとおり、私は最近人を嫌うことを覚えた。
「あの人は嫌な人だなあ」
「少し関係性を見直そう」
と思考することを、人為的に起こしている。これをやるたびに砂を噛むような鈍い違和感に襲われるが、必要なことだと自覚して行っている。
基本的に私は人を嫌いにならない。悪感情を持つことを避けて通ってきたし、中学卒業時の将来の夢は「聖人君子」だった。そんなコレクトネスな私がどうして「人を嫌う」という選択を取るようになったのか。
どうして「嫌う」必要があるのか。
今日はそれについて書いていく。
なぜ、嫌わないのか
私はある個人に対して「嫌いだ」と考えることを半ば本能的に忌避してきたし、これからも大半の場面で継続するだろう。これは一般的な公道徳教育の賜物でもあるが、もう少し根の深い理由がある。自覚できたものを幾つか並べる。
相手との可能性を閉じたくない
相手との関係性を細らせることは、本来生じるはずだった新しい発想やより良い結果を失うことに繋がる。そうして可能性を永遠に喪うことは耐え難いことだ。どんな人間だろうと人間性とは別に持つ知識はある。
SF世界なら脳をガポリと取り出してコードを挿し知的財産だけ吸い出したり出来るが、ここは基底現実なのでそうはいかない。
人間性が合わない人とも言葉と雰囲気でやり取りし、可能性を生まなければいけない。
一方的に関係性を切りたくないし、同時に切りたくもない。こういう心理から次の思考が生まれる。
人を嫌う人になりたくない
大多数の人は「嫌われたな、関係を切られたな」と思うと悲しいはずだ。それを対称的に考え「じゃあ人を嫌うとその人は悲しいんだなあ」という帰結に至る。
俗にいう「自分が嫌なことを人にしてはいけません」的思考だ。私はこの思考が非常に強い。恐らく誰かに影響を与えることに恐怖感があるらしいが、これはまた別の機会に掘り下げる。
人を嫌うと相手は悲しむ
実際自分は嫌われるととても悲しい
だから相手を嫌わないようにしよう
単純な三段論法であるが、単純であるがゆえに私の行動規範の奥深くに根付いている。大事な部分だ。
強い感情に身を任せたくない
これもある。自分は脳内メモリが少ないと感じているのだが、「嫌う」「怒り」という思考は非常にメモリを食う。体感80%。残り20%で相手とのやり取りや言い合いに足る論理的思考など到底できないので、強い感情に呑まれた時点で負けが決まったようなものだ。
少し論旨とずれるが、私は人とのやり取りは文章でやりたい派だ。理由は上記のとおりで、音声会話だと情報伝達に関わる部分でメモリを割かなければならない部分が余りにも多い。
文章会話なら相手の表情声質イントネーション周囲の様子時計目線視線光線その他、総じて「雰囲気」というやつに惑わされずに、相手の情報を受け取って自分の伝えたい情報を正常に伝えられる。雰囲気に呑まれて言葉が続かず会話が異常終了するのは本当に最悪の気分になっちゃうので、何とかしたい。
顧客に示しがつかない
これもある。彼らが
「あいつ嫌い!」
などと言い出した時に、私の口から出るべきは同意ではなく教導でなくてはならない。それでなくとも日ごろから誰とも分け隔てなく在る姿を見せておく必要があると考えている。模範、というには余りにも頼りないが、
「彼にも良い所あるよね」
と考える姿勢を常に示したい。だから逆進的な思考は極力持たずにいたいのだ。
私が人を嫌わない理由として、ざっくりとこの辺りが挙げられる。産まれてこの方20年来で熟成された思考回路であるが、案外端的に言えた気がする。コミュニケーションが苦手なのに人が好きであり続ける男の人間心理だ。どこか幼稚に見えるのは気のせいか?倫理観さん?
なぜ、嫌い始めたか
ではなぜここまで嫌がる「嫌う」という心理を、私が人為的に意識するまでに至ったのか。端的に言えば「こっちの損がデカすぎる」に尽きるが、色々あるので詳しく書く。
嫌ってみたかったから
人を排斥するのは、気持ちの良い行為だ。少なくとも外から見るとそのように見えていた。現代のいじめや近代の魔女狩りを代表として、誰かを嫌い、仲間と共有し、連帯して排斥を強める一連の動作は共同体を強固にするし、当事者にしてみれば快楽に近い。
昔、人から大いに嫌われたことがある。その時に自分から「あいつ、嫌な奴だよね」と誰かに口にし、相手から同意をもらったことがある。白状するが、これがまあなんとも心地よかったのを覚えている。悪意を肯定的に許容されるとエスカレートする気持ちが良くわかったし、精神衛生にも良いとその時は感じた。
ただ、案の定自己嫌悪もひどいものだが。
好悪の非対称性がキツいから
成長して関係性が複雑になるにつれ周囲の悪意も増大した。その中で「相手は自分を嫌うのに自分は悪感情を抱いてはならない」という心理が、呪いに近くなったのだ。嫌われている相手にどう接すればよいかわからなくなり、接するほどに嫌われるという状況は自己矛盾を引き起こす。
右のほほを殴られたら左のほほを殴らせる人は過去にいたし私もそうあろうとしているが、これが中々に難しい。そも相手の心のうちなど全くわからず、自身の被害性心理が強いのもあって心理的混乱は加速度的に増し、そのうち破綻する。精神の安定を得るために、矛盾状態を解消するために人を嫌うのだ。
社会的損失が大きいから
上司や面接官、学校の先生などの前で
「嫌われるかもしれない、それはマズい」
と思うと、人は態度を慎重なものにする。それは前段階に
「この人は人を嫌う可能性が大いにある」
という思考があるからだ。「なにしても嫌わない人」に対して、人はどのような態度をとるだろうか。敬意を払うだろうか。年を食って社会的地位が向上してきた今、貴ばれ得ない態度をとることはお互いにとって良くないのかもしれない。
余談だが、どこかの研修でクラスのチカラ関係の話をされたことがある。その中で「良いやつ」の説明の下りで
「良いやつは結局緩衝材で【どうでもイイやつ】なんだよねw」
と講師が言っていた。当時はイイやつ代表として首を絞めてやろうかと思ったが、彼が言ったこともある意味的を射ていたんだと思う。
私が人を嫌う理由は大体この辺りに集約される。恐らく過大な自意識や過小な自己承認も絡んでいるだろうが、現状では言葉にならなかった。山月記解説記事書くときとかに具体化するんじゃないかな。
嫌うことの効能と注意点は何か
じゃあ試しにやってみてどうだったかを書き記す。眠くなってきたがここで切ると永遠に書き終わらないのが目に見えているので、一気に書く。
「嫌だ」と言えるようになった
なあなあで受け止めていたところを、やんわりと断るくらいはできるようになった。「断る」までの間に思考が挟まるのでまだまだだが、精進していきたい。そうすることで前述のような、「この人は断る人か」という目線も受けるようになり、雑な仕事の投げ方が減った気がする。善し悪しだが、今は歓迎したい。
「共感」の幅が広がった
上にも書いたが特定の人物の悪口を何人かで言い合うのには麻薬に似た効能がある。集団心理なのか何なのか、すげえ気持ち良い。
「あの子ワケわからん」
「この施策アホだよね」
同意と共感の坩堝にハマるとダサイクルに似た快楽が出る。これを知れただけでも儲けものだ。
もちろんカウンターとして倫理観フィルターを持ち出して自己の有様の醜悪さを俯瞰して直ぐに抑止するが、あれはハマる人はハマるだろう。こりゃTwitter論客は絶えないわな、という気持ちだ。
会話時の心理的負担が減った
正直これは大きい。従来は「嫌な奴だ」の思考に「でも嫌っちゃいけない」を常に上書きし続けていたから、メモリが全く足りなかった。ここに「うん、嫌な奴だ」と噛ませることで上手く会話に思考を持っていくことが出来るようになったのだ。
なのでもしその人が皮肉や嫌みのような文言を言っても、それを悪言フィルターに掛けることが認可されたので、心理的に負担が少なくなった。それまでは一つ一つ真面目に受け取って咀嚼していたので、当然と言えば当然である。人を信じるのもいい加減にするべきだ。
とりあえず思いつくところをざっと並べた。相変わらず砂を噛むような嫌な感覚は付きまとうが、「人を嫌う」ことにも良いことはあるらしい。これからも心理と社会とで良いバランスを取れるように、相手への見方を調節したい。
おわりに
・・・おそらく、このような「人を嫌おう」という心理は、まともな人は何も考えずに出来る作業なのだろうと思う。ワーキングメモリが足りていれば嫌いな相手とも難なく会話し、後で友人と悪口大会、ということも可能なのだろう。
持って生まれた才知は、もうしょうがない。考えるだけ心がつらくなるだけだ。自己分析を重ね、手立てを考え、実装し、生きやすいように自分を改変する。それだけだ。一生砂漠の中で苦虫を噛んで生きるしかない。そういう生き物だ。
だいたい以上である。何か感想や意見、質問や相談があれば、ブログのコメント欄でもTwitterのリプライ欄でも、好きな所に書いてほしい。私に話せることがあれば、なんでも話をしよう。