甘口ピーナッツ

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アーマードコアの思い出と私の半生

初めに

 アーマードコアの新作が発売される。約10年、人生を見回しても長い部類に入るだろう、長い間が空いての新規タイトルだ。正直ACVDで過去作オマージュがドシドシ出てきていたのでこれが文字通り〝最後の評決〟なのだろうと腹を括り、しかしスタッフのインタビューを眺めると一様に「アーマードコアはいつかやりたい」と唱えているので踏ん切りがつかず、どうしたものかと思案していた昨今だった。燻る囲炉裏に薪を足しながら雨止みを待つような、帰らぬ主人に固執して屋敷を掃除する使用人のような、そんな宙ぶらりんな気持ちを胸に抱えたまま生涯を送るのは中々しんどいことなので、この望外の日を迎えられたことはとても幸福な、得難いことだろうと思う。

 この文章は、上のようなひねてこまっしゃくれたことを考えながらのうのうと生きていた末席の粗製レイヴンが、自分のアーマードコア体験を備忘録代わりに書き記すものである。当時の記憶のままに残すのが本義なので必要が無ければwikiなどは脇に置いておくし、記憶違いや時系列のズレはあると思う。そういった凸凹を眺めて「おお、凸凹しているなあ」と笑覧いただければ幸いだ。改めてになるがアーマードコアの新作、本当にめでたい。過去の私に一言言ってやりたい、あのくたびれた日の差す公民館の片隅で、小さなロムと黒い携帯機を手にしている私にだ。

PSPとAC3

 私はアーマードコア3が最初のアーマードコアである。正確には『ARMORED CORE 3 Portable』だろうか、往年の名機PSPに移植された、無印AC3である。御多分に洩れずメカ好きに育った幼年期の私は、小さな手には少し大仰な黒光りする機械を親から拝領し、ショバ代のかからないことを良いことに公民館のスペースの一角で友人と、ロムをシャッシャ言わせながらゲームに没頭していた。当時はモンハンにパタポンにガンバガンにと、PSP全盛期であったと思う。そんな群雄割拠の中でなぜアーマードコアなる耳慣れないタイトルを手に取ったのか、今はよく分からない。ガンダムと同じメカアクションの棚にあったからなのか、タイトルの英語が読めて得意になったのか、単に黄色い帯のベスト版が安かったからなのか、全ては闇の中である。とにかく、私のアーマードコアはここから始まった。

 初めは、わけが分からなかった。まずはガレージに行って自分の機体を調節するのだが、ガンダムみたいに格好良い腕にするとなぜか武器が持てないし、頭のパーツによって弾丸が撃てる画面の枠が変わるし、しまいにはFCSとかいう板切れを高額で買わされることに納得がいかず、ついでにFCSが何の略語なのかいまだによく分かっていない。たぶん火器何とかだ。

 戦闘に出てもまあひどい。ボタンを押せば天井に頭をぶつけるわ壁に擦るわであたふたする間に敵のヘリは後ろに飛んでゆき、敵のロボットは自分と大差ない見た目なのに永遠に画面にすら収められず一方的に撃たれ、仕舞いには水の中に入っただけでゲームオーバーである、まったくの衝撃だった。なにしろガンダムのゲームでは、こんなことは無かったのだ。ガレージに帰ってきてはパラメータに表示される英語と数字と漢字の羅列を同時に読み解かされ、ミッションに出ては運転免許講習だったら間違いなくペケが付くような操作感をぶつけられて、強い風雨に晒されながらの幕開けであった。

適合していく身体

 なんだこれはと唸りながら試行錯誤をするが、不思議なことに、これが楽しくなってきた。パラメータを眺めているうちにどうやら重いものを持つと動けないという一般の法則に立ち返れば良いこと、デカい箱みたいなやつを高いのにするとブーストの持ちが良いことを段々と体得し、指と目を馴らしていくにつれてスティックと十字キーを両方操作すればより素早く後ろを向けること、エネルギー消費を抑えながら行動した方が安全であることを着々と身につけていった。まるで鍵が鍵穴に段々と合っていくような、身体の感覚がこのゲームに適合していくアーマードコア独特の感覚をここで初めて覚えたのである。余談だが、今の自分の空間把握能力と見通しを付ける技術はこの頃このゲームに培われたものだと勝手に思い感謝している。ありがとうアーマードコア、自転車で車道を走る時とかに重宝しています。

 アリーナとやらで切磋琢磨して金を稼ぎ、クレーンのお化けや大仏のお化けや三葉虫のお化けやをやけに強いマシンガンで蜂の巣にしているうちに、どうやら最終局面らしい、荘厳な場所に行け、管理者を止めるとかいうクエストが登場した。実は情けないことに、まだ人間として発達途上だった頃の自分には、ストーリーの全容がよく分かっていなかった。薄暗い高速道路や大きなダムなどを飛び回って、マークされたものに弾を撃ち込む、そういうシミュレータめいた繰り返しに終始していた。それは管理者のAC2機と対峙した時も同じであり、何度かリトライしたあとに最後の場所であるらしい塔を重二の脚で何とか登り、黒焦げのトウモロコシの芯のような塊に残っていたミサイルを撃ち込んでも、今自分が何をしていたかについて深い自覚はしていなかった。

「管理者」の衝撃

 記憶に残っているのは、その直後のムービーを観た時の感覚である。管理者がくぐもった声で『地上へのゲートロックを解除』『システムを停止します』と途切れ途切れにアナウンスを流し、それに対してここまで二人三脚でやってきたオペレーターが応答するのだが、彼女は最初『今のは一体…?』と口にする。これは当時の私と同じ感覚だ。システムがどうこうと言われても何のことか分からない。そう思っていると二の句を継いで、

『地上……?』と呟くのである。これには驚いた。

 エンドロールの段々と開いていく“地上へのゲート”を拝みながら、私はこの自分とオペレーターとの乖離の衝撃を延々と反芻していた。今自分は間違いなく地上にいて、世界に所属していて、この黒い機械を握りしめている。このゲームの世界の人々は薄暗い世界にいると思っていたが、彼らはよりによって地上を、自分にとって当たり前のことを知らなかったのだ。いやたぶんメールにはそれらしい文句がどこかにあったのだろうが、とにかく私はそこで初めて強い驚きに襲われていた。たぶん世界に、ゲームが持つ世界観に自分の世界を明確に揺らされたのである。

 そこに至って、私は自分がしたことを正しく思い返すことが可能になった。何かに守られていた薄暗い街、なぜか企業の人に引き止められた最終決戦、打ち込んだミサイル、管理者の意図、開いたゲートの向こうから聞こえる『Artificial Sky』の慈愛と悲哀がこもった知らない女性のコーラス……。ACVDの財団が言う「見届ける権利と義務」を、クレストの代表者が投げかけた「為したことが何を生むのか」という問いを真正面から受けることが出来たのだ。やっとつかんだ砂が指からこぼれるような、本当に痛切な瞬間だった。

生活とアーマードコアの照応

 その後もアーマードコアシリーズは遊べる範囲で遊んでいった。心酔したと言って差し支えない、自分の中の特別な箱に入ったゲームであった。SLとLRは同じくPSPでプレイし、友人と貸しあって遊んでいた。同じく人類を試すかのように機能する管理者、その支配から生き残ろうと力を示して足掻く人類の姿はとても綺麗だった。親への必死の交渉でPS3を何とか導入し、AC4とACfaを堪能した。次世代機が実現する広い空間と大破壊と秀逸な映像の中でライフルを撃ち合う、全く違うゲーム体験に打ち震えた。ACVとACVDも楽しく遊んだ。この頃には情緒が育っていたので、管理する存在と争う存在が残り滓を求め入り乱れて争う相剋に燃え上がった。過去作は、残念ながら手が出なかった。復刻という言葉に甘えて、今も出ていない。復刻、復刻。

 アーマードコア作品に底通する「管理するものとされるものの奇妙な共生関係」「知識基盤の根本的な差異が生み出す物語のおかしみ」などの構成要素は、その後のサブカルチャー人生や日々の学びとたびたび照応するようになった。何かを解釈するときに、アーマードコアを通して考えることが増えたのだ。例えばメガテンでロウとカオスのフレーズや概念が提示された際に「代表とレジスタンスだ」「オールドキングはめちゃカオス寄りだな」などと考えるとすんなり合点が入ったし、お絵描きの練習の教本の中にレイヤーを上から被せてという文句を見た瞬間に「レイヤードって、そういうこと!?!?!?」と雷が落ちたりもした。日々の彩りである。

 ゲームも漫画もアニメも人生も全てひっくるめて一個の体系として語ることが可能だろう、そういう圏論的な考えを私がするようになったのは、アーマードコア3の卓越した世界観を最初に浴びたのが非常に大きい。その後の作品群も含めて、人生の基盤となったと言っても過言ではないだろう。ありがとうアーマードコア。ありがとうアーマードコア

ACMADと賃金の使い道

 なんとか社会人チャレンジに成功して賃金を稼ぐようになってから、グッズも買うようになった。といってもその頃にはアーマードコアは長い休眠状態に突入していたので、プラモデルを買ってみたり、同社作品である『ダークソウル』や『ブラッドボーン』などのタイトルを遊んでみたりした。もちろんソウルシリーズも大好きであるし大変愛好している。その上でフロムのロゴに見え隠れする「アーマードコアの新作」という夢を追い求めて、盲目的にお金を落としていったこともまた事実である。中でも20周年記念のCD集『ARMORED CORE ORIGINAL SOUNDTRACK 20th ANNIVERSARY BOX』を買えたのは直接お金を使えたという実感があって助かったし、そのブックレットの巻末で小倉Pが、

フロム・ソフトウェアとしてARMORED COREシリーズをこのまま終わらせるつもりは一切ございませんので、いつかまた新たなARMORED COREを手掛けることができるよう、これからも邁進して参ります。今は具体的にお話できることがありませんが、ここにお約束いたします。

 と宣言されているのを見つけて、泣きそうになったのを覚えている。ずっと待ってみよう、そういう信頼を置いて良いのだろうという強い確信を、その時に得たのである。あれは本当に福音だった。AC勢はどうして待てたのかと不思議そうに囁かれるのをSNSでたまに拝むが、私はこの言葉が支えだった。先の見えない戦いでも何とかしてくれるという小さな灯火だったし、今はそれがルビコンを煌々と燃やしている。最高だ。

 ニコニコ動画で勃興したACMAD文化にも大変お世話になった。プレイ当時はインターネットという概念すら自分の中に無かったので、自分が知っているゲームを遊んだことのある人がこんなにもいたのか、あの作品はこの人の目を通すとこんなに輝いて見えるのかと感動しながら眺めていた。今見ても色褪せないアーマードコアのネタとロマンの詰め合わせ、多くの人に愛されたタイトルなのだと再確認させられて、泣けてくる。

「闘争」という愛すべき概念

 少し脱線する。アーマードコアを語ろうとすると時折「闘争」というフレーズにブチ当たることがある。良かれ悪しかれ長らくアーマードコアの名前を世に繋ぎ止めた、ある種象徴的なフレーズである。個人的にアーマードコアにおける争いは、それ以外の手段が全て尽くされていたり手段を選ぶことすら出来ない苦境にあったりする際に発動するものであり、決して伊達や酔狂でドンパチやっているものではない、と思っている。

 その補足として、ACVの“代表”と呼ばれる存在が人々に向けて演説したセリフを引用する。アーマードコアにおいて一二を争うほど殺伐とした世界観のその冒頭に置かれた台詞である。

我々は残されたのだ この汚された世界に

かつて人類の創り上げた繁栄は時と共に失われ またその過程で更なる汚染をばら撒いた

あらゆる有害な物質によって大気は変容し 多くの大地は人の住むことのない荒野へと変わった

大地は汚染されていき 残されたわずかな土地に我々はしがみつくように生きている

そしてそれでもなお、戦いは続いている 我々自身の愚かさが故に

我々は、救済されねばならない

世界は、まだ死んでいないからだ

世界は、生き延びなければならない

我々は、まだ生きているからだ

人々よ、我々には思念がある 意志がある

それは、我々が生きている証だ

世界は、まだ死んでいない証だ

人々よ、我々は戦うべきだ

立ちはだかる全ての敵となる、たとえそれが何者であろうと 我々自身の力によって排除すべきだ

それが我々の愚かしさの証だとしても

それこそが我々自身が生きている、我々が生きるための、最後の縁なのだから

V用語辞典(台詞編)2 - ARMORED CORE @ ウィキ | アーマードコア - atwiki(アットウィキ)

 確かアーマードコアの製作陣も、AC6に際したインタビューの際に近い趣旨のことを言っていたはずだ。何もかもを失わせる闘争が愚かしいものだと認めた上で、それでも、と言いながら手を伸ばして〝よすが〟を手繰り寄せ、生き延び、救済を手にする。理屈や理由がまかり通ったあとに現れる闘争、そういうものが一番心地良い。

 管理者は厳然たる目的があって人類を試しに来ているし、人類の方も賢明なる企業や団体として一番なすべきことを採択している。レイヤードの安全のため、故郷のコロニーを守るため、あるいはただただ生き残るため、様々な思惑や動機がセリフ劇の形をとって主人公の頭の上を交錯し、その最終的な結実としてある「闘争」の結果のみがプレイヤーに委ねられているのは、ある種芸術的だ。

 どんな権謀術数を凝らしても、最後に物を言うのは確かに暴力である。たぶんこれは疑いようのない、アーマードコアの世界の基本原則だろうと思う。しかしそれは行き詰まった物事を覆し得る人間の可能性であり、並び立った英雄のどちらが倒れるかを決める恨みっこなしのコイントスとして厳格にデザインされており、だからこそ我々は管理され決まりきった何かをご破産にする、いわゆる「イレギュラー」「人類種の天敵」「黒い鳥」足り得る。雑然と振るわれる無根拠な暴行ではない、全てのカードが開いて状況が整理されてはじめて最終かつ必然に立ち現れる圧倒的な暴力装置こそが主人公その人であり、一種の諦観や悲哀も無い混ぜにしながら行われるのが闘争だろう。だいぶ乱文だが、そんな気がしている。

ありがとうフロムソフトウェア

 最後になるが、アーマードコア6の発売が本当に嬉しい。冒頭にも書いたように、叶ってほしいと強く祈ると同時に叶わないだろうとほぼ諦めていた願いが、ついに叶ったのだ。粘り強く口重く闊達に制作を続けてくださったフロムソフトウェアスタッフの方々、国内のみならず海外にメチャクチャな熱量の広告を展開された企業の皆様、その他アーマードコアシリーズの制作に携わった全ての存在に、心からお礼が言いたい。

 別段私は大人物では無いしそういう立場にもまったく無いけれども、それでも何らかの、こう、命を救われたような浮ついた感傷がある。たぶんサンタさんに手紙を書く幼児の心理が一番近い。そういう幼稚で切実な、自分のこれまでの半生を形作ってくれた感謝と、これからのもう半生の入り口を喜びに彩ってくれた感激でいっぱいである。本当にありがとうございます、アーマードコアは本当に最高でしたし、これからも私の最高であり続けると確信しています。本当にありがとうございます。

 以上である。アーマードコア6に、またその先に続くかもしれない未知の展開に、これからも末永く心躍らせていたい。ちょうどキラキラするPSPのロムをしげしげと眺めていた、あの頃のように。