甘口ピーナッツ

多めの写真やTwitterに書ききれないことを書く

ミュウツーは何を「招いて」いたのか

・はじめに

7/12封切りのミュウツーの逆襲を、7/13に観てきた。控えめに言って最高だったので、何が最高だったか感想を並べていく。なお、その瞬間の自分の感情に身を任せてキーボードを叩いているので、敬体と常体が入り乱れている。生な感じを賞味頂きたい。私は自分を肯定します。

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なお、ネタバレは多い。

 

・総評

100点満点中5000億点だった。昔の映画の焼き直し、あの素晴らしいセルアニメをどう料理するのかと期待半分不安半分で劇場に向かったが、蓋を開けてみれば元の味を活かしながら見事に再構成された脚本と目新しい技構成から繰り出されるバトルとあの頃と変わらぬ楽曲とSEと史上最高の3Dアニメとを満載していて一瞬で天国に連れていかれた。開始5分のサカキ様登場で泣き、序盤の片言トレーナーとの主題歌バックでのバトルで泣き、中盤のミュウツー登場で泣き、終盤のニャースの禅問答で泣いた。昔と感動所が変わらないということは、良さがそのままあるということだと思う。素晴らしい作品だった。

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ポケモンのリアルさ

 

とにかくポケモンの全てがリアルだった。少し前に「名探偵ピカチュウ」が上映されていた際にポケモンの身近な存在っぷりが話題になり、かく言う私の周囲の界隈も興奮と熱狂の渦に叩き込まれていたのだが、今作も御多分に洩れず最高だった。任天堂さんサイドの作り込みがヤバい。一つ一つ見ていきたい。

 

やはり良いのは体格、その大きさだ。サトシの肩に少し狭そうに乗るピカチュウやカスミのナップザックにスッポリと入るトゲピーはもちろん、サトシが両手いっぱいに広げた中に収まるフシギダネゼニガメ、椅子の背丈ほどのプクリン、見上げる高さのギャラドスや肩口ほどのニドクインなど、ポケモンたちの頭身が「そこにいても何もおかしくない」と感じるほどにリアルなのだ。空想の存在にリアルも何もない気がするが、実際そうなのだから仕方ない。わからんという人は大人しく劇場で確かめてみよう(ダイマ)。特にヤバいと感じたのはリザードンが首をもたげるとちょうどサトシの目線の高さになって画面の中がリザードンとサトシでいっぱいになって最高の最高になる所と、港で無名トレーナー達がストライクにぶら下がったりピジョットに飛び乗ったりする所(乃至、あの港でトレーナーたちがパートナーに乗って飛び出していくシーンの流れ全体)だ。あのポケモンが近くにいたらこうなんだろうなあと容易に想像できるのが素晴らしい。もっと欲しい。カイリューの腹の上で健やかに一生を終えたい。

 

質感も素晴らしかった。ロコンのような毛並みの良いポケモンはモフモフに、カメックスのような硬そうなポケモンは生物的硬感を示すテクスチャになっていて、それぞれのポケモンが生きていた。特筆すべきはピカチュウだろう。普段は毛並みが寝た艶やかでマットな質感なのに対して、大雨の中を進むシーンでは物の見事に全身の毛が励起していてもはや空恐ろしかった。陸についてピカチュウが身震いするシーン見ましたか?そんなもの無かったけど私は見ましたよ。

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恐ろしいのは、バケモノ感が殆どないことだ。並みの3D映像なら何か違和感がありそうなものだが彼らにはそれが無いと感じた。たぶん目の前をサワムラーが歩いていても驚かないだろうし、朝起きたらポッポが空を飛んでいても違和感はないだろう。それだけポケモンという存在が身近な存在だと認識しているということだろうと思う。当たり前だと思っている常識を再認識させられるのは不思議な感覚だ。今度来るドラクエの3D映画にも期待したい。

 

加えて言うなら、3Dモデルの芝居、動作や仕草の見事さだろう。フシギバナサイホーンの脚型の差から来る走行法の違いの表現やストライクやサワムラーといった現実の存在と全く符号しないポケモンの殺陣の自然さなど、挙げれば枚挙に遑がない。中でも特筆すべきは終盤のサトシが石と化した後のピカチュウの有り様だろう。あのシーンの出来栄えで最後の泣き所へと繋がることは明らかだが、表情、挙動、仕草、音声に間の取り方、もう何もかもが素晴らしかった。ピカチュウが当惑してから必死に働きかけ最後に何かを悟って哀しみに暮れるまでのあの一連の流れは、3Dアニメ史に確実に残る30秒だったと思う。

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ロケット団は最高だな!

 

ロケット団は、ポケモン作品を通して私が好きなキャラクター群の一つだ。彼らは主人公サイドとは別の場所にカメラを持ってきて、しかも独自の目的意識が与えられているから主体的に話を展開させられる貴重な存在であるから、ポケモン映画などの長編に欠かせない存在だと思う。その汚くも何処か潔い姿勢が私は好きだったし、そもそもキャラクターとして魅力的だ。

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序盤の船でサトシらを導くシーン、あそこは原作の方で私が記憶していた唯一のシーンであり、大好きな部分であった。特に船の舳先に女神像よろしく括り付けられたニャースの姿は今も忘れられない。今作ではどうなるのかとドキドキしていたが、予想を大きく上回る扱いの良さに感涙した。船は現代風に強化され、ロケット団の紹介はより緻密かつ大胆になり、ロケット団舟歌も入り、もう最高だった。あのロケット団の有り様をこれでもかと示したシーンを観ただけで映画のモトを取ったと確信している。

 

もう一つ触れたいのは終盤、ポケモンたちが互いと争い合うシーンだ。それを見たムサシとコジロウが「昔の自分を見るようで」「今の自分を見るようで」とそれぞれ独りごちた後「ヤナ感じぃ!」と言っている。思うにこれは直前のカスミやタケシと比較して、大人が共感しやすい台詞として用意されたのだろうと思う。ロケット団の二人は年齢的に上の世代であり、だからこそ「昔」と「今」を俯瞰できるのだろう。タケシはともかくカスミでは、後者は言いこそすれ前者は言えないだろう。主人公とは別の視点から物語を語れる存在、翻って劇場に来た大人層に刺さる言葉をなげられる存在がロケット団なのだ。加えて今回は前回子どもだった層が大人になって来ている。彼らが作品を新鮮に観る為の原動力としても機能したに違いない。少なくとも私はそうだった。やっぱりロケット団は最高だな!

 

 

・サカキ様のカリスマ性

 

やっぱりポケモンの悪役筆頭はサカキ様(様付けでないと気が済まない)であると改めて感じた。序盤にしか出てないのに存在感が恐ろしいほど大きい。筋の通った悪逆とその美学、萎えることのない野心、ミュウツーを容易く手玉に取る狡猾さ、いつみても素晴らしい。最近だと「ゾイドワイルド」辺りの界隈でも聞かれた話だが、悪側に人間らしい弱みや葛藤などがあったりしないからこそ、サトシのような「少年然とした純粋な善」が渾身の力でぶつかれるのだろう。主人公が悩むことなく「許せない」と言える、それでいて簡単にはその存在を崩されない強度。サカキ様はそう言った意味で「悪役らしい悪役」なのだと思う。

傍にペルシアン(今作にも登場、凛としていて最高だった)を侍らせているのはゴッドファーザー的文脈に拠るのだろうけど、もう自分の中ではサカキ様の文脈上書きされている。やっぱりロケット団は最高だな!

 

・グリーンくん

一瞬だけ客演していて逆に美味しいなあいつ。

 

 

この辺りからまじめな考察。

 

ミュウツーの「手招き」

ミュウツーが手招きしていた、と言われてピンとくる人は居るだろうか。或いは私が観た幻覚だと思うだろうか。話が起から承へと移る頃、ミュウツーは天気を操って島の周りを荒天にして見せた。あそこでのミュウツーの仕草を思い出してもらうと、何かを手繰るか撹拌するような動きだったと思う。私にはあれが「手招き」の動きにしか見えなかったのだ。

では何を招いていたのか。話の文脈的には「世界中の選ばれたポケモントレーナー」であろう。実際に招待状を用意してカイリュー(トランスポーターGX持ちカイリューでしょ彼)を派遣するという回りくどいことをしてまで呼び寄せているのだ、そうに違いないと映画の中盤まではそうだと考えて気にも止めていなかった。

本当にそうだろうか。疑問が湧いたのは大広間で黒ジョーイさんが「嵐を越えられないトレーナーに用はない」と言っていたシーンだ。それでは招集できるトレーナーのパターンがあまりにも限定的すぎないか。もちろん脚本の都合的に人数を絞る必要があるなどの理由を立てることが出来る。しかしそれでは理由として不適当だと私は漠然と感じた。

本編の中の情報を使って、「ミュウツーが手招きをした」ことと「島を包むような嵐が起きた」ことが整合するような理論立ては出来ないだろうか。

そもそもミュウツーが起こした嵐は、島全体を覆いきれていただろうか。いや、そうではない。半球の頂点の位置、台風の目となる部分にポッカリと穴が空いている。確かに台風やハリケーンなどでは回転の軸となる部分には雨が降らず、晴れ間が覗く。これは自然現象を引き起こすだけのミュウツーの限界によってできた穴なのだろうか。しかしもしミュウツーの言葉通り「嵐を渡る」ことを対戦の前提条件とするならば、あのような抜け穴が発生したりはしないはずだ。ミュウツーの意図は一体何だったのか。

私は、ミュウツーが「無意識的に穴を空けて、そこから何かが来るのを待っていた」という説を考えている。すなわち、嵐を人間が渡ることを前提として人を「招いた」中で、無意識に欲する存在を「招」くために穴が生じた、という説である。

では結果として何が招かれたのか。もちろん、ミュウである。自分のオリジナルであるミュウをミュウツーが夢想するあまり、ミュウのためだけの入り口が自然に用意されたのだ。その証拠として、ミュウが水の中で覚醒するシーンがどこにあったかを思い出して欲しい。丁度ミュウツーが「手招き」をしているシーンである。ミュウがどこからミュウアイランドに入ったか思い出して欲しい。雨風の無い、中天の「穴」からである。

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ミュウは気まぐれにやってきたのではなく、明確に「招かれ」て来たのだ。自分と同じ遺伝子を持つ存在によって、自分のためだけに用意された入り口を通って。

 


・あの螺旋階段はなんだったのか

 

ミュウツー城の大広間に二重螺旋の階段あるじゃないですか。二重螺旋は天を衝くドリルなのでどんな文脈で拝んでも泣いちゃうんですけど、あれ、ポケモンと人間の関係の象徴だと思うんですよ。一緒に円を描くけれど決して交わらない、その距離は一定で、すぐ近くにある。最高のパートナーシップだと思いませんか?私は考えてるだけで気持ちが良いです。おまえも欲望に従え。

最近の幻覚には根拠が必要なので示すんですけど、作中でこの階段にアクセスした存在は計3つ。ミュウツーピカチュウ、サトシ。これらについて個別に見ていきます。あと一つあるんじゃないかと5秒前に気づいて脳汁がヤバい。

 

まずミュウツー

これは有名なシーンである、トレーナーたちの前に姿を現わすところだ。「最強のポケモンであり同時にポケモントレーナーであらせられる、ミュウツー様です。」のセリフとともに降りてくるミュウツー。螺旋階段の中央部を貫ぬくように降りてくる彼は、「階段に足を乗せない」。人間でもなければポケモンでもないとは本人の言、彼は「人間でもポケモンでもない」ため、だからこそ人間とポケモンの二重螺旋を描く階段の中央から降りてくるのだ。

 

次にピカチュウ

襲いくるミュウツーボール(正式名称)から逃げるシーンの最後に駆け上がるところである。傷つきながらも必死に電撃を出して逃れようとするピカチュウくんかわいいなあ!(発作) さて、彼は片方の階段を駆け上がることとなる。逃げ場所がそこしかないから当然で、上の考察に乗るならポケモン側の階段を駆け上がっていく。ではただポケモン側をひた走るだけだったか?これは劇場で見ていて私も驚いたのだが、ピカチュウは、「反対側の階段に移動している」シーンが明確にある。追い詰められた時に、ピョンと、いとも軽々と。これは「人間とポケモンの側を行き来する」サトシのピカチュウだからこそできたことだろうと考えている。二者が同列だ、そこに優劣は無いと語って止まなかったサトシ、彼の言葉をピカチュウは、その身体を以って示したのだろうと思う。

 

ではサトシはどうか。

彼もピカチュウを追って階段を登るわけだが、ただ登るだけだったか。ピカチュウを追う彼は、ピカチュウが力尽きて階段から滑り落ちたのを見るにつけ、同じく階段から身を投げている。すなわち「階段を走ることよりも自分の相棒を優先」している。これはもうサトシの主張、「ポケモンか人間かなんて関係ない」という観念の現れと言って良いだろう。階段に足を乗せないことを選択したという点では先述のミュウツーと同じであるが、その根本原理は全くの真逆であるというのも面白い点だと言える。

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さて、先に衝動的に書いていた、階段に関係していた「もう一つ」とは何か。思考の過程を整理したい。

まず階段を見て素朴に思うのは、あの階段の先には何があるのかという問いだ。彼が降りてきた所から推察するに恐らくミュウツーの居室、本編でトレーナーを選別していた部屋だろう。では建物の外観からあれほど長大な階段があると考えられる部分はどこか。中央部の尖塔だ。ところであの大広間には上から水が滝として流れていた、あれは何によって上に運ばれていたのか。ミュウツーサイコキネシスでないなら、何らかの設備によるものだ。水を低地から高地に運ぶ設備と言ったら何か。水車或いは風車だ。あの劇中にそのような設備は何か。ある。尖塔の先に一つ風車がある。では、その風車に関係していたポケモンは存在しないか。

 

 

 

 

存在する。ミュウだ。

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人間とポケモンの螺旋階段が交わる場所、尖塔の先端部で児戯に興じてはあかごのように笑う彼女の有り様は、何とも示唆的な、ある種皮肉めいた様相を呈している。螺旋の先から怒りを湛えて自ら降りてきたミュウツーとその先に容易く辿り着いて無邪気に笑うミュウ。何とも対比的ではないか。

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もちろん、風車の機能の限界や部屋の場所が推測に過ぎないなど、反論のしようはある。ここであくまで主張したいのは、その証拠らの実際の強度ではなく「それらが至る所に散りばめられている意味」である。作品に無駄な所など一つもない。作者が何らかの意図を持ってそこに配置しているからだ。ミュウが戯れたのが瓦でも庇でもなく風車であったこと、大広間にポケモン用の池だけでなくわざわざ滝があったこと、全てに意味があると考えるべきだと私は考えている。そしてそのいくつかを結びつけた結果、上の結論に至った。私はもうそうとしか考えられなくなっているが、貴方はどうだろうか。

 

何にせよ、その頂点に居ながら足を踏み入れなかったミュウツー、その間を跳び渡って見せたピカチュウ、そこから脱却して相棒を守ろうとしたサトシ、その果てでクスクスと哄笑する伝説のポケモンミュウと、互いに相容れないあの二本の螺旋階段を巡ってこれだけのメインキャラクターたちが動作しているのだ。何らかの意図を見出したくなるのは必定だろう。

 

ひとまず以上である。本当に様々なことを考えさせてくれる、最高の映画だった。ポケモンは大事なことをいつも教えてくれる。これからも愛好していきたい。ソードシールド楽しみだなあまったく!

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あ、面白かったと思ったら下の評価ボタンを押してもらえると、心が助かる。また何か書くときのモチベーションにもなるので、何卒。

 

追記

貼るための画像を公式サイトで探してたらえらいもん見つけてしまった。とりあえず見てもらいたい。

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公式サイトのアオリ文のスクリーンショットである。問題は1枚目の冒頭、ミュウが現れる条件の所だ。「清らかな心と会いたいと強く願う気持ち」がある存在の前にミュウは姿を現わすという。上の考察で私は「ミュウツーがミュウを無意識に呼んだ」としている。島にミュウが現れたとき、誰がミュウを呼ぼうと考えることが出来たか? やはりミュウツーしかいない。ミュウはミュウツーの呼びかけに応えたのだ。そうなると逆説的に「ミュウツーは〝清らかな心〟と〝会いたいと強く願う気持ち〟」を持っていたことが成立してしまうのだ。後者はまだわかる、オリジナルを打倒することが彼の目的の一つだからだ。では前者の方、これは成立するのか?ミュウツーは純粋なのか?これを考える上でどうしても頭をよぎるのは、幼少ミュウツーと彼女の存在だろう。

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この映画の唯一の瑕疵として取り沙汰されている、アイツーとのやり取りを映像化しなかった点。幼少のミュウツーとアイツーとの対話と別れは涙無しでは見られず、またラストシーンの重大な伏線でもあるこのくだりは完全版で追加されたシーンであるため映像化が無かったことも頷けるが、一方でこれが無いことを悔やむ人も確かに居る。私もその一人だった。しかしこの考察によって私の憂いは晴れている。映画の最冒頭、生まれる前に見たとされる美しい山々や緑あふれる大地について、彼は憧憬混じりの声で「あの光景を、私は必ず忘れない」と言っていた。あのシーンは何なのか。彼の原体験として「彼を純粋たらしめる何かが彼の基底にあるのだ」と視聴者に伝えるためのシーンなのだ。緑溢れる何かを見て、彼は確かに純粋さを獲得したのだ。物語としては悪役となったミュウツー、しかし彼は変わらず純粋だった。彼女と語らった彼と同じく、創造主に認められる程に。

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