甘口ピーナッツ

多めの写真やTwitterに書ききれないことを書く

現代文の一体何が面白いのかという話 ~東大過去問と「キルラキル」を重ねて考える~

 はじめに

 

 

「現代文は面白い、学ぶ価値がある」

 

 

 最近そう思うようになってきた。この世に生まれ落ちて早25歳、高校教諭になって4年目のことである。

 

 などとそのまま顧客に言えば「じゃあ今まで面白くもない代物を懇々と顧客に教えていたのか」「教育者の風上にも置けない恥知らずめ」「入学金返せ」と痛罵してきそうだが、別段ふと思い立ったわけでもない。

 

 要は高校時代からなんとなく「好きだな」と思っていた現代文というやつの、何が具体的に「良い」と感じていたのかが明確になった、という感じである。最近疎遠になっていた幼馴染と同窓会で再会してどぎまぎ系漫画と大体同じだと思ってくれれば良い。

 

  ちなみに、その感情が明確化するきっかけの瞬間がこれである。

 全く言語化できていない。ここから端を発して生まれたのがこの記事である。

 

 

 私は普段、ゲームをしたり漫画を読んだりTwitterをしたりと、のんべんだらりな生活を送っている。その合間に仕事をしている始末だ。だが、こんな日ごろの無為に思える見聞や遊びが、以下に書く気づき下地にあると考えている。なのでこの記事は、人の知識欲を肯定する意味も含んでいる。有意義な学びしか認められないのか?そもそも不要な知識なんてあるのか?という話だ。

 

 なので今回は、遊興の範疇に位置づけられる愛すべきサブカルチャーを用いて、学校教育でも採用される由緒正しき現代文群の良さを詳らかにしてみようと思う。

 

 

 

顧客に会ったら現代文の最初の授業で伝えたい。現代文とは、面白いものなのだ

 

 

 

~この文章はこないだ構成したパーペキ作業空間よりお送りします~

 

~目次~

 

1.過去の経験知の集積

知識と経験の違い

 人が現代社会を真っ当に生きる上で欠かせないものは二つ、即ち知識と経験である。人は外発的な知識を様々な媒体から得つつ、自身の経験を補強し修正しながら生きるものだと私は考えている。この漫画が面白いぞと進められたらレビュー欄を見つつ買うし、ボスの倒し方で詰まったらwikiを見る。日頃の営みを分析するとこのような、経験の取得と知識の集積の二つにわかれるはずだ。

 

 この二つの中で有限なのはどちらか。経験であろう。自分が得られる経験の範囲は非常に狭い。寿命という時間的制約に加え、人はその瞬間の環境、年代、国籍、性別の視点からしか物事を認識することが出来ない。おかげで同じアニメやゲームを視聴しても人によって受け取るメッセージは様々だったりする。

 

 もちろん、人は理性ある動物なので他の視点から物事を感じることも可能だが、それはあくまで擬似的なものだ。我々は突然赤ん坊にはなれないし、原始時代を生きることも出来ない。もし可能なら児童心理学や人類史学は学問として成立しないだろう。我々は、他者に想いを馳せることしか出来ないのだ。

 

 

知識と現代文

 逆に言えば知識を蓄えること、何か他の文章を読むことは「他人の視点発の経験を積む」「別人の濃厚な感覚を共有する」ことであり、それは自分が積める経験の量と比較して無限に近い。人の数だけ経験知はあり、その中で似通ったものに我々は共感し、違うものには興味や反感を抱く。

 

 現代文はそういった外発的な知識を濃縮したものであり、体系化された物事であれば何であろうと関係するだろう。では何が現代文の範疇か?教科書に載るような学術論文や仕事でよく読む新聞記事はもちろん、誰かが書いたブログの記事やTwitterのコメント、果ては漫画巻末の著者コメントまで、言うなれば現代文だと考えている。そもそも小説もエッセイも詩も教科書に一緒になって載っている。このくらい広い範囲を現代文と呼称した方がかえって収まりが良いに違いない。

 

 

2.現在の思考の整理

「思考」とは

 自身の思考の整理は、知識と経験の両輪を得て初めて出来ることだと考えている。考えを巡らせる下地や纏めるための枠組みは、既存の知的体系を多少なりとも組み合わせることで成り立つ。全くのゼロから何かを成立させるのは、情報と先行研究が氾濫する現代社会では難しいだろう。

 

 思考とは、今得られた情報に対する反射に近い。何を見聞きしても、それに対して人は思考を巡らす。新しいアニメの広告を見れば監督は原作は内容はと派生し、未知の情報を得ればソースは妥当性は先行研究はと深みに沈む。サブカルチャーに浸る人なら一度は経験があるだろう、実に楽しい時間である。

 

 

思考の基礎としての知識

 これを体系的に分析するときに、自身の背景知識が役に立つ。様々な知識を持っていれば、あの監督なら大丈夫だと安堵し、ソースが不安定だから気にしなくて良いと見抜くことが出来る。逆に言えば、知識が無ければその情報を受け入れて終わり、になってしまう。それでも新鮮さはあるかもしれないが、生のままの情報は少し心許ない。

 

 その生の情報を切り分け枠に収め安堵を得る基礎として、様々な文化的創造物、より学術に寄せるなら論文がある。先人たちが培った知識整理の型である。作品のキャラクター造形、人物の心理の揺れ動き、時代背景の参考文献、そのどれもがとても貴重なものである。多くの人が「こういったまとまりがある」「こうすると良い感じだ」と考え、日々編纂されてやがて我々の俎上にあがる。

 

 

「様式美」の発生

 この整理体系がより洗練され大衆化していくと何になるか。簡単に言うと「様式美」や「お約束」、俗に言うと「ミーム」になる。刀を持てば武士、セーラー服を着れば女学生、金髪ドリル釣り目と来ればまずお嬢様だし、ロン毛か白髪か糸目か先輩格で声が石田彰なら大体黒幕といったように。

 

 上のような型は脈々と存在しているし、逆に言えばだからこそ「型破りなキャラ」が引き立つ。セーラー服を着た男子学生はそれだけで非常にソソるし、鋼の錬金術師のアルフォンスの声優が釘宮だとは誰もが度肝を抜かれた。

 

 では元不良の風紀委員は、眼鏡の元気っ子はあり得るか。喋る本や車輪の無い車、空飛ぶ箒はどうだろう。そんな意欲的な何かを創作者が模索し組み合わせ作り上げ、我々の目の前に表れた時に「ふうん。」で思考を終わらせない、そのためには構成する型を見て取りその新鮮さを分析出来る枠組みを、自分の中に作っておく必要がある。そうして初めて最大限楽しめるのだと私は考えている。

 

 その極限の一つがミーム文化だろう。ネット界隈で語録だけで会話する集団を目にすることがある。そのたびに「語録でしか会話出来ない哀れな存在」「尊厳は無いのか」「現代教育の敗北」などと取り沙汰されているが、彼らは共同体内での体系を高度に共有し「お約束」で会話するに至っていると私は考えている。なんとハイコンテクストだろうか。

 

 …言語の多様性を捨てている時点で公教育の敗北には変わらないが、知識体系の編纂と共有が密になればああもなるという一例である。棺桶をかついで踊る男達や回転するオウム、クラブを湧かせる都知事なども、その類例だろう。あのような阿吽の呼吸とも言うべき活動が顕著に見られるのがサブカルチャーである。一方で、知識体系として最も密なのが現代文だ。この二つには高い親和性がある、と私は考えている。これについては次の章で書く。

 

 

枠組みと網

 何か新しいものに触れる際に、知識が、自分の中に一定の枠組みがあればそれを解明することが出来る。解明すれば他のものを受け止める網になり、新しいものに切り込む鉾になる。それは一般に言われる「ジャンル」かも知れないし、媒体や構成要素、性別や色、音や形、様々な枠組みが考えられるし、人によっては想像も付かない区別の仕方を持ち合わせているだろう。人それぞれの整理の枠組み、受け止めるための網を持ち合わせているはずだ。

 

 日常の何事も、それは知識を得る活動に他ならない。友人と話すのも、現代文を解くのも、ゲームの考察を漁るのも、音楽を聴くのも、外を散歩することすらも、その意味では同質だ。その中で思考活動が円滑に発展的に進んでいれば、その生活は豊かなものに違いないと考えている。大事なのは、枠組みの構成が意識的に行われるとは限らないということだ。リラックスしながら行いたい活動だってもちろんある。しかしその経験すら、突然何かと結びつくことがある。

 

 

3.新しい切り口の発見

思考の先の先

 知識を編み、新しいものを得て、網に落とし込む。ここまでの内容で人は一通り満足できる。できるが、更にその先があると私は考えている。物事に新しい切り口を発見する、遠くの網目同士を結びつけるのだ。俗に言う「文脈」というやつだが、これを無限遠に拡張していくのである。

 

 先はアニメとアニメの結び付けについて話していたが、では別ジャンルではどうか。シリアスな作品とギャグアニメの根底に同じ通念が流れていないか、別の恋愛系の実写映画とはどうか、こないだ読んだ雑誌付録のエッセイとは、同僚との雑談の内容とは、自分が組んだ枠組みを飛び越えてそれぞれの中に同種の切り口を探すのだ。

 

 何が楽しいのか。とにかく楽しいのである。人は新しいもの、誰も知らないものを見つけ喧伝したがる性分があると私は考えている。未知の切り口があればそれに心動かされ、誰かに伝えたくなる。だから限定品と銘打たれたものは飛ぶように売れるし、あつ森で我先に島を開拓しSNSに載せる。それが周知か自慢か勧誘か教唆かは度合いによる。

 

 誤解の無いように明記するが、私は人のこういった新しいもの好きで伝えたがりな性質を否定する気は毛頭無い。フロンティア精神は歓迎されて然るべきだし、他者の視線を気にしてで押し留めるのも程々が良い。かくいう私がこのようなブログを認めているのも、自分が編んだ思考の新規性を信じ、自意識と相談し、意義があると考え、人に伝えるためである。

 

 

キルラキル」と東大過去問

 話をもう少し自分のことに寄せるが、私は先日、アニメ「キルラキル」の監督が語ったテーマと、東京大学の過去問に出題された文章との間に共通理念を見出した。大好きなアニメと大学の過去問、自分の中にありながら全く交わらない枠組みだと思っていた二軸が、スッと合わさったのだ。いやあ本当に気持ちの良い瞬間だった。ほぼイキかけたし、これは何事かと分析を始め、ブログを開き、題名を書き、今に至っている。

 

 

 自身でこのような経験が既にある人がいるかもしれないし、そういったことを発露する人を見たことがあるかもしれない。難しいのは、論理の組み立てや伝達がうまくいかないと、どんな閃きも妄言に収束してしまう点だ。語彙力の問題とも通じるが、「エモい」「推せる」段階で止まってしまうと、自分も相手も情報を掴むことが困難になってしまう。だから、こうやってまとめ上げるのが大事なのだと思う。

 

 

なぜ、現代文なのか

 ここにおいて、現代文は二つの意味で有効である。一つは、その情報の強固さだ。参考文献はもとより、筆者の経験や知識、そこから編まれた論理がミッシリ詰まった考察である。その論理構成を真似ても良いし、自分の思考の枠組みに部材として使っても良い。量もジャンルも、多ければ多いほど良い。

 

 一つは、その構成要素の多様さだ。例えば芸術論ひとつ取っても、歴史学地政学や象徴学、果ては心理学まで混ぜて論じていることもざらにある。思考の接続ポイントが非常に多いのだ。今得た思考がどれか一つとでもひとたび響きあえば、たちまち他の学問や考察に反響し、一つの新しい切り口が見出されるだろう。

 

 論文やエッセイ、果ては雑誌のインタビュー記事も、人の思考の過程に発生した現代文である。自分が愛好する趣味文化を修める過程でそれらとの関連を模索し、より自分の思考の枠組みを強固なものにしていくと、新しいことを知るのがもっと楽しく、面白くなるに違いない。繋がりをたぐるのだ。

 

おわりに

だいぶ長くなったが結局何が言いたいのか。

 

過去の知識を再編纂し自分の中に取り込み、

今目の前にあることを分析し結びつければ良いものが得られる。

その距離が遠ければ遠いほど新規性と幸福値が高い

 

という話だ。

 

「同じコマの中にいるからカップル」だの「コラボポスターで隣合うのは匂い立つ」だの「耳の形が弟に似ている」だの、隙あらば関係性を見出そうとするのはオタクの悪い癖だ。時としてその結びつけがあまりに希薄で、自他共に捏造だ~と言っていることもある。

 

だが、それで良いのだと私は思う。一見すると関係の無い複数の物事を織り合わせて何かの結論を見出す、とても素晴らしい活動だと思う。その上でそこに根拠や確信性を持たせてやるのが発想者の腕の見せ所であり、その理由と大まかな手順を著したのがこの文章である。

 

そもそも今回の前提であるキルラキルと東大の過去問、すなわちサブカルと現代文」自体、自分の中では非常に遠い位置にある二つであり、だからこそ繋げて手繰って書くにつれ楽しい時間になっていった。ある一点と一点とが偶然にも結びつき、ひとたび考え出すと止まらない、あらゆるものが連想の俎上に置かれ、全部が繋がっていく感覚。視野が更新されるのである。たまらない。

 

皆さんも部屋を見回して、自分が好きなそれぞれについて今一度考えを巡らせてみてはどうか。漫画ゲームCD、何でも良い。あるいは本棚の奥に眠る赤本現代文の教科書を引っ張り出して、試しに一本読んでみてはどうだろう。言語論だろうか、それとも詩編だろうか。それらがそこに集まったのにはきっと何か理由がある。何か結びつくところはないだろうか?是非考えてみて欲しい。

 

 

 

 

以上である。何か追加で思いついたことがあったら追記するし、コメントで興味深い内容が投稿されたら取り上げたい。見ると、この記事の字数表示欄に今、6422字と書いてある。原稿用紙八枚強の文章を、ここまで読んで下さった方々に感謝したい。

 

 

この辺りで筆を置こうと思う。

 

 

追伸 良ければ読者登録をして下さると大変ありがたい。同時にあなたが書いた文章もよく読ませて欲しい、活字には常に飢えているので。